夏目漱石と猫の出会い
猫が夏目漱石の家に来た経緯
夏目漱石が作家となって売れる前は、大学や高校、中学の英語講師をしていました。夏目漱石は英語の講師をしながらも俳壇で活躍しており、名声があがってきていました。
夏目漱石は結婚し、英国へ留学して帰国後、東京帝国大学や明治大学の講師になった頃、千駄木の夏目漱石の家に子猫が迷い込んできました。夏目漱石の妻、鏡子は猫が好きではなかったため、家に入り込んでくる猫をそのたびに追い出していました。しかし何度つまみ出しても、猫は家の中に入り込んできます。
家に入ってくる猫に気づいた夏目漱石は、鏡子に「置いてやったらいいじゃないか」と妻に言ったそうです。それ以来、猫は夏目漱石の家で暮らすことになりました。
夏目漱石に飼われることになった猫の特徴
夏目漱石の家にもぐりこんだ猫は、一見、全身が真っ黒でした。よく見ると、黒い被毛の中にも虎斑(虎のような模様)があり、さらに爪の先まで真っ黒な猫でした。
夏目漱石の家に出入りしていた按摩のお婆さんが、この黒猫を見て「奥様、この猫は足の爪の先まで黒いので珍しい福猫でございます。飼っていれば家が繁盛いたしますよ。」と伝えたそうです。
福猫だと聞いた妻の鏡子は、猫のご飯に鰹節を乗せてあげるなどして、猫を大事に扱うようになったとのこと。
黒猫には名前はなく、猫、猫と呼ばれていたそうですが、夏目漱石の背中に乗ったり、子供たちと遊んだりしながら、可愛がられて幸せに暮らしたそうです。
夏目漱石に幸運を呼んだ猫
猫をモデルに小説を書く
夏目漱石は俳人であり小説家でもあった高浜虚子のすすめで、飼い猫をモデルにした小説「吾輩は猫である」を書きました。
俳人で夏目漱石の友人でもあった、正岡子規の門下生の会でこの小説は発表され、好評を得ました。
その後、明治37年の暮れに所属していた俳句雑誌「ホトトギス」に掲載されました。「吾輩は猫である」は1回の読み切りでしたが、好評だったために続編が描かれることになったのです。
「吾輩」である猫が、親や兄弟から引き離され、その後に人間に飼われることになるまでの最初のくだりは、夏目漱石が猫を飼うことになった経緯とほぼ同じだと考えられます。
「吾輩は猫である」は夏目漱石の処女小説で長編小説となりました。
「吾輩は猫である」は夏目漱石もモデル
「吾輩は猫である」の猫は、夏目漱石が飼っていた猫がモデルとなりましたが、その他の登場人物も夏目漱石自身や、周りの人物がモデルとなっていると言われています。
「吾輩は猫である」の登場人物についてご紹介します。
「吾輩」
主人公の猫。名前は出てこず、自分を「吾輩」と呼ぶ猫の一人称で物語が語られます。
猫の模様については、「吾輩はペルシア産の猫のごとく、黄を含める淡灰色に、漆のごとき斑入りの皮膚を有している」と自分で表現しています。
このことから小説の「吾輩=猫」は、キジトラではないかと想像されます。「吾輩」は周りの猫や人間をよく観察したり、哲学的な考えを述べたり、文芸に通じていたりします。
「珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)」
吾輩の飼い主で、英語の教師。夏目漱石がモデルであるとされます。
妻と3人の娘がおり、胃弱で神経質でノイローゼ気味、俳句をやってほととぎすに投書するなど、夏目漱石自身と思われる性格や行動などが書かれています。
実際に夏目漱石は神経衰弱の持病があり、疲労感や不安、抑うつ、頭痛などがよくあり、胃痛にも悩まされていました。
「珍野婦人」
珍野苦沙弥先生の妻。頭にハゲがあって隠しています。夏目漱石の妻「鏡子」がモデルと言われています。
「車屋の黒」
江戸っ子なしゃべりかたをする、大きなオスの黒猫。吾輩とよく出会い、そのたびにいろいろと話をする間柄になります。乱暴者で教養がないので、吾輩は当たり障りなく会話をしています。
「三毛子」
隣に住んでいる、二絃琴の御師匠さんの家のメス猫で、吾輩のことを先生と呼んでいます。吾輩は恋心を抱いていましたが、三毛子は若くして亡くなってしまいました。
猫同士の話はもちろん、飼い主である珍野家とそれに関わる人間模様が、猫からの目線でユーモアを交え、風刺的に描かれています。
夏目漱石は作家として作品を発表していく
「吾輩は猫である」が好評を博した頃から、夏目漱石は作家として生きていくことを熱望するようになりました。そして「倫敦塔」や、「坊っちゃん」といった作品を夏目漱石は続けて発表し、人気作家としての地位を固めていくことになりました。
夏目漱石が小説家となるきっかけとなった作品の、モデルになった黒猫は、まさに福猫だったと言えるでしょう。
夏目漱石は猫の死亡通知書を作成
明治41年の9月13日に、夏目漱石の家で実際に飼っていた黒猫は死んでしまいました。
猫の亡骸は、蜜柑箱に入れて家の裏庭に埋められたそうです。
その際、妻の鏡子に何か書いてあげるように言われた夏目漱石は、角材に「猫の墓」と書き、裏に「此の下に稲妻起る宵あらん」と一句したため、墓標としました。
猫が亡くなった翌日、夏目漱石は親しい人や門弟に次のような文面を葉書に書き、猫の死亡通知を出しました。
猫の死亡通知の文面は次のようなものです。
《辱知猫義久々病気のところ療養相叶わず昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人「三四郎」執筆中につき御会葬には及び申さず候。以上》
また、夏目漱石は猫が亡くなる直前の様子を「猫の墓」という随筆に書き記しています。妻の鏡子は猫の月命日には、鮭の切身一片と鰹節をふりかけた飯を一皿、お供えしたそうです。
夏目漱石も、妻の鏡子も、猫を大切に思っていたことの表れですね。
まとめ
「吾輩は猫である」の主人公は、ビールを飲んだあと水甕に落ちて溺れて亡くなってしまいますが、モデルとなった黒猫は、具合が悪くなり亡くなったと言われています。
名前はつけてもらえなかった黒猫ですが、小説のモデルとなったり、お墓を作ってもらい、死亡通知を出してもらったり、命日にはお供えをしてもらったりするなど、夏目漱石やその妻に愛されていたことがわかります。
雑誌「ホトトギス」は、夏目漱石の「吾輩は猫である」が掲載されたことで売上げを伸ばし、元々は俳句雑誌だったのですが、有力な文芸雑誌の一つとなりました。夏目漱石が小説家として名を知られることとなった「吾輩は猫である」、読んでいない方は一度猫目線の小説を読んでみてください。
既に読んだことがある方も、登場人物を夏目漱石とモデルの黒猫を想像しながら読むと、また違った雰囲気で読めるかも知れません。