生まれてすぐ飼育放棄された愛猫たちとの20年で伝えたかった想い

生まれてすぐ飼育放棄された愛猫たちとの20年で伝えたかった想い

ひょんなことから3匹の保護猫達と暮らすことになり、20年。おっかなびっくりから始まった猫達との生活で、自分らしく自然体で暮らせるようになった体験をご紹介します。決して幸せな生い立ちではなかった猫達に、少しでも幸せな生涯を送ってもらいたいと願う日々でした。

出会い

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突然の「ねぇ、猫飼わない?」

同じマンションに住む、猫の保護活動をされているご婦人に初めて声を掛けられたのは、1999年4月のことでした。マンションの小さなホールに設置されている自販機の前で、コーヒーを買おうとしていた時のことです。

反射的に振り向くと、見知らぬ外国人の女性が立っていました。とても上手な日本語で「猫、嫌い?」と尋ねます。あまりに突然だったので、警戒しながらも「いえ、動物は好きです」と答えていました。

その頃、私は結構多忙な会社員でした。月曜にお客様の事務所に伺い、平日はビジネスホテルに宿泊、土曜に帰宅という日々だったのです。ただし6月には部署の異動が決まっており、毎日帰宅できる生活に戻れる予定でした。

そのご婦人の「猫を飼いましょうよ」というお誘いは多少強引な感じがしましたが、彼女独特の話し方がそう感じさせたのかもしれません。「今は忙しいので無理ですが、6月になったら生活が変わる予定なので、その時にまた考えさせてください」と伝えてその場は別れました。

2匹との生活開始

6月になり、その方のお宅に猫を見に行くことになりました。オスの子猫が2匹、仲良く遊んでいました。もう一人里親をみつける予定だったようですが、駄目だったようです。

「1匹も2匹も一緒」とおっしゃって、英語の猫飼育ガイド本を貸そうとされました。英語は苦手なのでそれは断り、準備のための時間を頂くことにしました。

実際に猫達を見てしまい、正直ワクワクしていました。1匹だけを選べず、2匹と一緒に暮らすことに。以前飼っていたシマリス小太郎の弟分ということで、名前は大きい方を弐郎丸(じろうまる)、小さい方を三郎太(さぶろうた)としました。

家族になろうよ

最初のうちは、お互いに警戒しあっていました。朝家を出て夜中に帰宅するので、一緒に過ごせる時間もごく僅か。猫達もなかなか警戒心を解いてくれません。

そこで、なるべく猫達に合わせようと、床の上で過ごすようにしました。いつも猫達のすぐ近くで過ごし、勢いよく立ち上がったり、大きな音をたてないように注意しました。

私のことを味方だと認識してくれた後も、距離感が縮まらないまま半月ほど経った週末のことです。

床の上に寝転んでいた私のお腹の上に、弐郎丸がひょいと乗り丸くなったのです。叫び出したいくらい嬉しくなりました。そこから、猫達と私の距離が縮まったように思います。

家族の完成

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2匹を引き取り、あっという間に1年が経ちました。そして、またあのご婦人から声が掛かったのです。「ねぇ、もう1匹飼わない?」今度はメスの、小さな三毛猫でした。公園のゴミ箱の中に、兄弟達と一緒にゴミ袋に入れて捨てられていたそうです。彼女だけ里親がみつからず、困っていたのでした。

私は及び腰でしたが「1週間だけ試してみて」と押しきられ、三毛猫の身の上に同情した私は、1週間様子を見ることにしました。

なかなか馴染めない三毛猫がかわいそうで、三日目の夜に無理だと返しに行きましたが「1週間」と押しきられ、もう一度連れ帰りました。

そのまま彼女は我が家の一員になり、やはり昔のシマリス壱子の妹分ということで、弐子(にこ)と名付けました。

弐子は1週間で見事に我が家に馴染みました。同じ椅子の上で3匹が丸くなるのが、冬到来の合図になり、夜は私の股の間や右脇、左脇に潜り込み、皆一緒に一つの布団で眠るようになりました。私たちは一つの家族になったのです。

猫達との楽しい生活

楽しい生活2ショット

3匹優先の生活に変えたら人生が楽しくなった

相変わらず仕事は忙しかったのですが、とにかく3匹を優先した生活になりました。今ほど情報漏洩に厳しい時代ではなく、多少仕事の持ち帰りはあったものの、徹夜や休出は激減。

今までなら1泊するような出張も、夜行に飛び乗り朝帰宅して、猫達の世話をしてから出社するようになりました。それが私にとっても楽しい生活だったのです。

子猫時代はあっという間に過ぎましたが、猫達の姿を残しておきたいと遅まきながらカメラも購入しました。家での時間は睡眠不足解消ではなく、彼らと一緒に楽しく過ごす時間に変わっていたのです。

3匹がうつから救ってくれた

決して仕事が嫌いだった訳ではありませんが、ある日突然「会社に行けない」という気持ちに襲われました。

毎日頭痛や吐き気で体調が優れません。検査で異常はみつからず、心療内科で薬を処方されましたが、皆が働いているのに頑張れない自分が情けなくなりました。

そんな時も、猫達は何も言わずに私の側に寄り添い、一緒にいてくれました。不思議と猫達の顔を見るだけで、頑張れるような気持ちになりました。

私が元気に働かなければ彼らを路頭に迷わせます。この子達の命は私しか守れないと思えばこそ、自分が生きていくことにも頑張れました。

猫達の闘病生活

闘病中の弐子

腺がんと悪性リンパ腫

最初の発病は三郎太でした。少し元気がなく吐く回数が増えたなと思っていたのですが、吐き方が尋常ではなくなり、慌てて動物病院で診てもらいました。

腺がんでした。手術で腫瘍の大部分を摘出してもらい、予後も思ったより良く調子の良い日が続きましたが、8ヵ月後に力尽きてしまいました。8歳でした。

その2日後、今度は弐郎丸の嘔吐が酷く、夜間救急で診てもらいました。

消化管型の悪性リンパ腫と診断され抗がん剤による治療を開始しましたが、副作用による激しい貧血のため入院。2度の輸血を受けましたが、帰宅することはできませんでした。やはり8歳でした。

慢性腎不全と進行性脳疾患

弐子はお兄ちゃん達と比べると長生きでした。

年相応に慢性腎不全で治療を受けていましたが、17歳になり激しい全身発作を起こしました。進行性脳疾患と言われました。

脳の病気なので、いつ急変するか分かりません。仕事をやりくりして残業を減らし、自宅での皮下補液や投薬を行なっていましたが、結局退職し家で看病に専念することにしました。

常に側で様子を見ていられたので、急変の都度すぐに病院で対処してもらい、2年半の闘病を経て、私の腕の中で眠るように亡くなりました。19歳でした。

最後の数日は、鼻から挿入したチューブで食事や投薬をしていました。

まとめ

お骨と遺影

今思えば、20年のうち半分近くは闘病生活でした。猫達は、決して長生きをしたいと思ってはいなかったでしょう。でも、その時その時をとても懸命に生きていました。だから私も、彼らが少しでも楽に暮らせるようにしたいと必死でした。

それが彼らにとって幸せな生涯だったかどうかは分かりません。ただ、生まれてすぐに飼育を放棄されてしまった彼らに、生きていて欲しいんだ、幸せに暮らして欲しいんだということを伝えたかったのです。それが里親である私の責任であり、私自身の幸せでもあったのです。

今は、会社に縛られずに自然体で仕事をしています。そして毎日、棚の中に並んでいる骨壺と遺影に向かって「今日もありがとう」と話しをしています。

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