実は福を呼ぶ猫だった!?黒猫が「不吉」と言われる所以と真実

実は福を呼ぶ猫だった!?黒猫が「不吉」と言われる所以と真実

日本ではいまだに根強く信じられている「黒猫」=「不吉」説。そもそも本当に黒猫は不吉なのか? 不吉と言われるようになった所以は? 本当は「不吉」ではなく、「福」だった!? 偉人たちも愛した黒猫との愛のエピソードとは?

黒猫はどうして「不吉」と言われるのか?

目つきの悪い黒猫

「黒猫が目の前を横切ると、良くないことが起こる」と言う迷信を聞いたことのある人は多いのではないでしょうか。

私は幼い頃、バカみたいにこのジンクスを信じていました。その上、「黒猫を見たら9歩下がれば大丈夫」と言うものもあり、真顔で9歩下がってました。自転車に乗っている時は、9回ペダルを後ろに漕いだりして。

今思うと「くだらないなぁ・・・」と思います。むしろそんな不自然に後ろに下がる私を見て、黒猫の方が私を「不吉なもの」と、とらえていたのではないかと思います。

そもそも、黒猫は本当に不吉なのでしょうか?そして、なぜそのように言われるようになったのでしょうか?

黒猫が不吉と言われるようになった由来

黒猫

「黒猫」=「不吉」と言うイメージの固定化は、やはり中世ヨーロッパにおいて、黒猫が魔女の使いとして認知されていたからでしょう。当時は魔女狩りによって、黒猫が殺されてしまうこともあったようです。

ベルギーで開催されている「イーベルの猫祭り」も元々は、疫病や災いは魔女の仕業だと信じられていたため、黒猫を飼っていた異教徒たちが身の潔白を訴えるため、生きた黒猫を塔の上から投げ落とす「猫の水曜日」という行事を年に一度執り行っていて、その名残だと言われています。

今では鎮魂の意味を込め、3年に1度、生きた黒猫の変わりに黒猫のぬいぐるみを投げるお祭りに姿を変えていますが、元々は残酷な風習でした。因みに、ぬいぐるみを手に入れた者には「幸運」が訪れるそうです。

また、黒猫の黒と言う毛色も、人間の心理に不安を与えたのかもしれません。暗闇で光る黄色い目が、昔の人間には不気味に映ったのかもしれませんね。

日本で「黒猫=不吉」となった時期

こちらを見ている黒猫

1910年(明治43年)、日本最初の猫の専門書である『猫』の中にある「猫に関する重大なる伝説」の中には、「黒猫」=「不吉」だと思わせる記述は見当たらないそうです。恐らく、日本でそう言われるようになったのは、1843(天保14年)年に発表されたエドガー・アラン・ポーの短編『黒猫』が原因の一つではないかと言われています。

日本においては1887年(明治20年)に、饗庭篁村の和漢混淆体よる翻訳が『読売新聞』に掲載されました。理不尽な虐待によって、殺害された黒猫の復讐劇を描いた小説です。

むしろ西洋文化が入って来る以前は、「黒猫は福を呼ぶ猫」と言う認識だったと思われます。その証拠に黒い招き猫には、本来の意味の他に厄よけのご利益があります。

黒猫を愛した偉人たち

人に抱かれる黒猫

宇多天皇と黒猫

日本の第59代目の天皇(平安時代前期)である宇多天王は、学者貴族として菅原道真を登用し、重用していました。菅原道真といえば、「学問の神様」として有名ですよね。ちなみに「天満宮」あるいは「天神」と名のつく各地の神社は菅原道真を奉る神社。その当時、類まれなる才能を持った菅原道真を選出・登用した宇多天皇の采配が大きかったと言われています。

そんな宇多天皇ですが、「寛平御記(かんぴょうぎょき)」という日記(現存するものの中で天皇が書いた最古の日記)を残していて、その中にこのような記述があります。

”先帝(父親)に(黒猫を)貰ったから、仕方なく飼っているだけ” 

これだけをみると、宇多天皇は本当は黒猫など飼いたくはなかったと聞こえます。もしかしたら、不吉だから飼いたくなかったのでしょうか。

しかし、「仕方なく飼っているだけ」な割りには、同じく「寛平御記」の中で、黒猫のことを次のように記しています。

「こんな毛色は他にない。本当に愛おしい。墨のように真っ黒」
「うちの猫に比べたら他の猫は見劣りする」
「かがむとキビみたいに小さいが、伸びると弓のようだ」
「歩く姿が雲の上を飛ぶ黒竜のようだ」
「目はキラキラと燃え、毛は針のようだがふさふさである」
「寝転がると、丸まって、足も尻尾も見えなくなってしまう。まるで玄璧みたいだ」
などなど・・・

これだけみてもわかるように、宇多天王が黒猫を不吉だと思っている様子は微塵もありません。いくら父親から譲り受けたとしても、不吉なものだったら、引き取ったりはしなかったでしょうし、父親も不吉だと言われるものを息子に贈ったりしないでしょう。

不吉どころか、「他の猫は見劣りする」と言ってしまっているあたり、相当溺愛しているのが窺えます。その証拠に宇多天皇は、黒猫に5年間ミルク粥を与え続けたそうです。

沖田総司と黒猫

歴史や新選組に全く興味がない人でも、一度はその名を聞いたことがあると思われる沖田総司。「剣の達人」「美男剣士」「天才剣士」「切り込み隊長」と数々の呼び名があった沖田と黒猫は切っても切れない縁があります。

沖田は結核を患って、早々に戦線から離脱するわけですが、結核で療養していた沖田の元に、自らの死を予感させるように、毎日黒猫がやって来ます。それを不吉に思った沖田が刀で、その黒猫を斬ろうとするのですが、病に蝕まれた身体では黒猫一匹斬ることが出来ず、「私には猫さえも斬れない……」と悔しがったというエピソードがあります。これは子母沢寛の『新選組始末記―新選組三部作』という小説の中の一場面で、創作と言われていますが、いつのまにか事実のように語り継がれています。

しかし、実際には日本では黒猫は「福猫」であり、「黒猫を飼うと労咳(結核)が治る」「恋煩いにも効験がある」「魔除け厄よけ」と信じられており、結核に苦しんでいた沖田もこの言い伝えを信じて、黒猫を飼っていたという記録があります。要するに黒猫を斬ったのではなく、可愛がっていたのでしょう。

夏目漱石と黒猫

夏目漱石の処女作『我が輩は猫である』は、1905年(明治38年)に発表されました。1899年(明治32年)に夏目家に迷い込んで来た黒猫が主人公の作品です。鏡子夫人に何度も追い出されますが、漱石の一声で、夏目家の飼い猫になりました。小説完成後に老衰で死にましたが、小説同様、最期まで名前はつかなかったと言います。

黒猫が死ぬと、漱石は門下生たちに、直筆の死亡通知を送り、月命日には、鏡子夫人が必ず鮭の切り身と鰹節ご飯をお供えしていたと言います。

のちに門下生の一人だった松岡譲は、漱石の長女と結婚し、鏡子夫人の談話を記録していています。そこには、夏目家に出入りの按摩の婆さんが、「奥様、この猫は全身足の爪まで黒うございますが、これは珍しい福猫でございますよ」と言ったと記されています。

実際にはよく見ると、黒ずんだ灰色の中に虎斑があったそうですが、一見、黒猫に見えたそうです。モデルとなって、処女作をいきなり大ヒットさせた黒猫は、不吉どころか、誰から見ても福猫でしょう。ここで問題なのは、黒猫かそうではないかではなく、「黒猫」=「福猫」と言う部分です。やはり不吉さは感じません。

余談ですが、知人に先祖が漱石の友人だったと言う方がいます。何通かやり取りしたお手紙が残っていて、そこに「猫が有名になった」と言う内容のものがあったとか。きっとこの猫のことでしょう。

まとめ

黒猫アップ

一説では黒猫は「餡子猫」と呼ばれ、福の象徴であり、その「福」に素通りされるのは運がないと言う意味だったと言います。個人的にはこの説の方がしっくり来ます。黒猫はクールで物静かななイメージがありますが、実際には人懐っこくて甘えん坊。好奇心旺盛とも言われていて、とても飼いやすい猫だそうです。

これから猫を迎える予定のある方は、「黒猫」=「不吉」だなんて時代錯誤なことを信じず、どうかあなただけの愛くるしい「福」を掴んで下さい。

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